COLUMN



 

ポストインターネット時代の法とデザイン 知恵蔵裁判からクリエイティブコモンズまで

2017.09.01


※この記事は『アイデア』378号に掲載されたものをウェブ用に再構成したものです。『アイデア』379号の鈴木一誌特集の一環として公開されました。

ポストインターネット時代の法とデザイン
知恵蔵裁判からクリエイティブコモンズまで

鈴木一誌(ブックデザイナー)×水野祐(弁護士)

1990年代の終わりに,フォーマットデザインの権利をめぐってブックデザイナー鈴木一誌と朝日新聞社とのあいだで争われた訴訟がある。知恵蔵裁判として記録されるその裁判は,鈴木の敗訴によって幕を閉じたが,その後,鈴木が中心となって『知恵蔵裁判全記録』が刊行されると全容が広く知られると,大きな議論が巻き起こった。

 それからおよそ20年。テクノロジーの進歩はますますさかんとなり,従来の知的財産権をめぐる法文の範囲に収まらない事例の急増によって,運用モデルあるいは法そのものがゆらぎ,法整備が追いつかないといった議論がさかんになされている。しかし,それらはあくまで実用レベルの話であり,デザインと法の関係,両者の営みとがどう異なり,どう重なり,両者はいかに架橋可能なのかといった本質的な議論については,残念ながら進歩が見られない。それは東京オリンピック2020のエンブレム問題をめぐる諸言説からもあきらかだろう。あれほどの議論を巻き起こした知恵蔵裁判自体も,忘れ去られてしまっている。

 だが,鈴木が知恵蔵裁判を通じて訴えたのは,たんなる著作権によるデザインの保護ではない。みずからの営為であるデザインの実相を,社会に対していかに伝えるか,そのためにはどのような言葉が求められるのかの探求にこそ,主眼があったのではないだろうか。知恵蔵裁判を通じて交わされた議論の数々には,法の理とデザインの理が,いかに激突し,いかに擦れちがったのかが克明に記されている。裁判というプラグマティックな法律論を超えた議論が,そこではたしかになされていのだ。

 時代の潮目にあって,知的財産をめぐる議論がかつてない活況を呈している現在だからこそ,この裁判には継承すべき豊かな可能性と,乗り越えるべき課題があるはずだ。さきほど『法のデザイン』を上梓し,日本におけるクリエイティブ・コモンズの普及に力を尽くしてきた弁護士・水野祐を相手役に迎え,鈴木一誌がいまふたたび,知恵蔵裁判を語る。

構成:長田年伸

デザインを語るむずかしさ

水野 今回の対談にあたって『知恵蔵裁判全記録』を読ませていただきました。知恵蔵裁判[★1]のことはもちろん知っていましたが,失礼ながらこの本のことははじめて知りました。一読,知恵蔵裁判がおこなわれた90年代末という時代状況において,フォーマットの権利をめぐりこれほどまでの議論の応酬がなされていたことに非常におどろきました。同時に,当時にあってこのテーマを言葉で説明することの困難さも想像しました。

鈴木 もともと「デザインってなにをするんですか」と聞かれても,なかなか説明しにくい。それを裁判官という,あまりデザインとは関係のない人に説明するのだから,なおさらたいへんですね。裁判官から「デザインというのはコラージュみたいなものですか」といわれて,のけぞった。タブローをつくる延長線上で,デザインを理解しようとする。ふだん自分が当たり前だと思っている作業を言語化しなくちゃいけなかった。

 さいわいぼくは,杉浦康平さんという,デザイン界のなかでことに理知的な人のもとでデザインを学ぶことができた。裁判での議論を通じて,杉浦さんが教えてくれたことや聞かせてくれた言葉を,言語化していこうとした。同時に,杉浦さんが確立してきたデザインの社会性や理念を後進に伝えていく役目の,自分がを務める宿命なのかなという気持ちもありました。

 ブックデザインのなかでも,たとえば装丁についてならば,〈似ている/似ていない〉を論じやすいけれど,本文を論じるのはとくにむずかしい。いまでこそ,版面権[★2]が語られていますが,当時は,本文設計になんらかの権利を主張するなんてなかった。

 デザイン行為を要素に還元していくと,デザイナーの手もとにはオリジナルなものはなにもなくなってしまう。本であれば紙やインキ,テキストなどに回収されてしまう。テキストや写真,図版も,デザイナーが作成したものではない。書体も別のタイプフェイスデザイナーが設計したものだ。じゃあ,どこにオリジナリティがあるんだろうか。その事態は,編集行為にも同じですね。どこに編集のオリジナリティがあるのか。

 本文設計=フォーマットデザインに正面からは著作権[★3]が与えられないだろうと,係争にいたるあたりでなんとなく自覚できていた。じゃあどういう切り口でなら争えるのか。弁護をしてくれた黒田泰行先生と村越進先生が考えに考えてくれて,編集著作権[★4]で訴えるしかない,となったんです。デザイナーからすれば,本というのは他者の著作物を束ねたものですね。でもたしかにデザインは存在している。他者の著作物を束ねる営為,実体はないその行為にこそデザインはあるのではないか。その〈束ねる営為〉は編集にほかならない。それで編集著作権しかない,となった。この論点に辿りつくまでに1年かかりました。

水野 著作権法という枠組みで考えると,著作物として認められる対象は,思想または感情を創作的に表現したものとされており,デザインを表現ではなく課題解決ととらえるのであれば,基本的にデザインはこれに該当しないことになります。よほどの独自性がない限り,デザイン自体に著作権が認められにくい。ましてフォーマットという,デザインのなかでも汎用性・機能性が強いものに対しては,なおさらのことです。じっさい,朝日新聞社側の主張としても,フォーマットに著作性を認めることで引きおこされるであろう社会的弊害を反論の根拠にしていますし,判決にもその危惧を考慮したことが色濃く示されています。提訴の時点では判決まではわからなかったとはいえ,朝日新聞社側がどのような戦略で来るかは予想されていたことでしょうから,たしかに編集著作権で裁判を構成すること自体が,ひとつの発明というか,なるほどと思わせる発想です。しかし,弁護士からすると,それは同時にいばらの道を進むことになることも予想される判断でもあります。いまだ法的に確立されていないデザインのオリジナリティのありかを探しにいくわけですから。

 鈴木さんはそれまでも,デザインの創造性やクリエイティビティがどこにあるのかを,いろいろなかたちで模索されてきたと思います。この本を読むと,その問いの答えをめぐって,ぶつかり稽古をする相手として「法」を選択して挑戦したのかな,という感触を抱きました。

鈴木がデザインした90年度版『知恵蔵』の紙面デザイン。新語の4段組と基本語の5段組の整合がはかられている

人間の聡明さを前提にできるのか

鈴木 提訴に踏みきるまえ,ぼくは朝日新聞社に,『知恵蔵』のフォーマットデザインに関してデザイナーの権利を認めてくれさえすれば,流用してもらってかまわないと伝えたんです。クレジットだけ記してくれればいいんだと。でも結局は,あちらがメンツにこだわって,デザイナーの権利をいっさい認めようとしなかった。そのときに感じたのは,コピーレフト[★5]するにしても,相手がバカではどうしようもない,人間の聡明さが前提になるんだなって。憲法9条も同じですよ。人類が聡明であることを前提にしない限り,交戦権の放棄なんてあり得ない。

 知恵蔵裁判をやっているうちに,自分の権利を声高に主張しつづけることで,だんだんと息苦しくなってきました。それで裁判と並行して,「ページネーションのための基本マニュアル(略称:ページネーション・マニュアル)」[★6]をつくって,それをコピーレフトしていく運動をはじめた。自分のなかのバランスを保とうとしたんですね。

 水野さんたちがやられているクリエイティブ・コモンズも,人間の聡明さを前提にしていますよね。

水野 クリエイティブ・コモンズはまさに人間の聡明さを前提にしていて,それが可能性でもあり,課題でもあります。聡明なアーリーアダプターは上手に使う。でも,大衆に広がってくるとある種の善意にフリーライドする人間も増えてくる。オープンであることとフリーライドをどう仕切るのか。現時点では,使う側の聡明さや倫理を信じつづけることになってしまっていますね。

鈴木 ぼくが思うに,倫理の発生は,デザインの問題にもつながってくる。「ここからが倫理」だとの明確なラインが決まっているわけじゃなくて,「これをやったら失礼になってしまうんじゃないか」「人の道に反するのではないか」と,心が震える瞬間があるはずです。魂の微動,といってもよいと思うんですが,そのかさを察知するのが聡明さでしょう。心の震えを察知する点で,聡明さは,デザインや編集にも共通して必要なものです。この微かさを無視すると,すべてを見失うんじゃないかと感じます。

 ページネーション・マニュアルをつくって痛感したのは,これを読んで内容が理解できる人にはページネーション・マニュアルは必要がなかった,つまり自明なことが書かれていた。いっぽうで,DTPにおける本文デザインの基本を知らないであろう人たち,すなわちマニュアルを読むべき人たちは,読んでも書かれていることが理解できなかった。同じようにクリエイティブ・コモンズも,わかる人にしか届いていないのではないか。コモンズを積極的に利用,運用している人たちは,聡明さを備えた人たちではあるが,ほんとうに届けたい世界には届いていなんじゃないか。

水野 クリエイティブ分野ではその通りかもしれません。いっぽう,公共データをオープン化するオープンデータや教育コンテンツ,そしてウィキペディアなどでは大衆性をうまく獲得できているとも思います。けれどそのこととは別に,クリエイティブ・コモンズの思想的役割が変化してきていることはまちがいありません。10年から15年前はまだオープンやシェアという考え方が社会に馴染みがなかった。そこにクリエイティブ・コモンズがもたらしたものには,少なくない思想的インパクトがあったと思いますし,かくいうわたしもその思想に魅入られた人間のひとりです。しかし,これだけシェアやオープンが当たり前になった現在,クリエイティブ・コモンズの思想的な役割は第一フェーズを終えたたのかなと,個人的には思っています。

『知恵蔵裁判全記録』に掲載された,『知恵蔵』フォーマットデザインの形成過程

フォーマットのもつ批評性

水野 『知恵蔵裁判全記録』を読んで,これだけ豊かなやりとりがこの当時,裁判所という場所でおこなわれていたことに,率直におどろきました。裁判所という機能,場所を使って,これだけの知的な応酬がなされていたことに,感動と新鮮さを覚えるとともに,逆にそのことがまったく知られていない現実にももどかしく思いました。

 わたしたち法律家は,知的財産権[★7]について学ぶときに,いわゆるフォーマットやテンプレートに著作権はなかなか認められない事例として,知恵蔵裁判の結論だけを抜き取って接してきています。ちょっと突っこんだとしても,判決文を読むくらい。そういう勉強の仕方なんです。しかもこの本では,代理人と鈴木さんのやりとりのメモから証拠まで,思考過程がほとんどすべて掲載されている。こういうものを関係者以外が読めるというのはかなり例外的ですね。本来的に一つ一つの裁判にはかなりの知的なやりとりの蓄積があるのですが,それが外に出ることはほとんどありません。

 知恵蔵裁判のやりとりは,読んでいてうらやましいと思うほどに,内容のレベルが高い。稀有な人材のぶつかり合いがこういうものを起こしたという言い方もできますし,それを可能にする文化的,経済的余裕が,この時代にはまだあったということかもしれない。そしてなぜ,ここで語られたことが,ぼくらの世代に当然のように染みこんでいないのか。これを前提にできる議論があるはずなのに,そうなっていないのはどうしてなのか。そのことに,焦燥感と危機感を覚えました。

 鈴木さんにうかがいたいのですが,デザインのうち表現であるものとそうでないものがあるとして,その境界はどこにあるとお考えでしょうか。これは知恵蔵裁判で争点となった,著作権が認められる「特段の事情がある場合」のフォーマットデザインとはどのようなものかという問題にもつながることだと思うのですが。

鈴木 テキストや内容に対しての批評性があるものが,デザインにおいての表現だと思いますし,批評性こそがフォーマットとして保護されるべきものと考えます。一例をあげれば,『知恵蔵』[★8]では,その年に登場した新語は4段組でレイアウトされています。かたや,その分野ごとに必須で,毎年は更新されない基本語は5段組になっている。この4段組と5段組とが,新語と基本語の差異を視覚的に表現している。『知恵蔵』は,現代用語事典としては『現代用語の基礎知識』『イミダス』[★9]に次ぐ三番手です。編集方針としては何匹目かの泥鰌なんだけれど,『知恵蔵』は,新語と基本語を,組版的に整合させつつ視覚的に差別化した。組版的な整合とは,4段組と5段組の段間がともに2文字分で,かつ全体の天地が揃っている。段数のちがうレイアウトを対置させるばあい,段間を自由に調整するならたやすいのですが,文字の大きさも段間寸法も同じにするのには,思考が必要です。文字の大きさも段間寸法も同じだからこそ,4段組と5段組の差が際立つんですね。『知恵蔵』のテキストに,新語と基本語の差異を見た,それがデザイナーの批評性だった。それは認められてもいいだろうと。

『知恵蔵裁判全記録』表紙デザイン(部分)。実際の裁判で提出した証拠を掲載。鈴木がデザインした『知恵蔵』のフォーマットデザインと,鈴木の手を離れた94年度版のそれとが重ね合わされている

フォーマットなくして編集なし

水野 批評性のあるなしの判断は裁判官には難しそうですね……。テキストに介入してくるというイメージなのでしょうか。内容を刺激するというか。

鈴木 テキストに座標を与えるという感じかな。いっぽう,〈束ねる〉という編集行為はアイディアでしかない,という著作権の見方があるんでしょうね。高裁での控訴棄却,つまりはこちら側の敗訴ですね,そこに判事が書いた「理由」に「特段の事情がある場合」とのくだりが出てきます。「それ(レイアウト・フォーマット用紙)が知恵蔵の編集過程を離れて独自の創作性を有し独自の表現をもたらすものと認めるべき特段の事情のない限り,それ自体に独立して著作物性を認めることはできない」。しかし,こちらからいわせると,フォーマットを離れた編集過程はない。座標なしのテキストがあるのか。

水野 たしかに中身に対する批評性がデザインの表現だとすれば,高裁判決の「編集過程を離れて」という限定はナンセンスだということになります。

 この判決をそのままとらえると,いいデザインとはとうてい呼べないような,ごちゃごちゃとした装飾的なデザインだけに,フォーマットとしての著作権が認められる結論になりかねない。

鈴木 編集過程を離れてレイアウト・フォーマット用紙が存在しうるか,と裁判所は問うのですが,フォーマットがあるからこそ編集過程がある,というのがこちらの主張ですからね。朝日新聞社や裁判所の論理構成を転換させるのはなかなかむずかしかった。壮大な擦れちがいです。

 でも,ぼくは当たり前の主張をしているのです。たとえば今日のこの対談も,掲載すべきページ数を念頭に,編集者が音声記録の取捨選択がおこなう。『アイデア』ならば,ページ数から文字数が決まってくる。そして小見出しをつける。その小見出しが本文よりも大きい文字で組まれるのか,それとも小さいのか,それによって,小見出しの字数が変わってくる。動詞で止めるのか,体言で止めるのかも規定されてくる。編集する人間の頭には,誌面の組まれた姿が描かれているはずです。ページのたたずまいを念頭に置かない編集過程はあり得ない。

 丸,三角,正方形は,ごくふつうのデザイン要素ですが,これを美しく並べるのはむずかしい。同じポイントで約物として出力した丸,三角,四角は,同じ大きさには見えません。まず,これらを同じ大きさに見せるのに工夫が要る。つぎに,丸,三角,四角を均等な間隔で並んでいるように見せるのもやっかいです。さらに,丸,三角,四角の順番を変えたとたんに,余白が変化していく。それらを細かく調整していくのがデザインであり,この微かさとの付き合いを抜きにしてデザインはない。しかし,そういう微妙さに目を向けず,丸,三角,四角という形状だけを取りだせるのか。

水野 法律家はいまお話されたようなことに興味をもって,さまざまな事象に当たっていかなければならないと思っています。ただ,現実にはそういう法律家は少ないですし,法律そのものに至ってはそもそもそういう考えに触れる接点すらありません。本来,裁判というのは社会に対してなんらかの影響を与えうる場所なのですが,それがなかなかできていない。その点の批評もないし,知恵蔵裁判の蓄積が継承されてもいない。デザイナーはもしかしたらちがうのかもしれませんが,少なくとも法律家はこれを肥やしにできていない。

鈴木が現在制作に参加している『角川新字源 改訂新版』(角川書店)の指定紙(部分)。コンマ2桁にまでおよぶ細かな数値が所狭しと書き込まれている

保護されうるフォーマットとは

鈴木 これは,今秋発売される『角川新字源 改訂新版』(KADOKAWA)という漢和辞典の指定紙です。漢和辞典のフォーマットデザインはなかなかめんどうです。スペースをめぐっての0.01ミリの闘いですから,指定が細かくなる。漢字の詳細ななりたちや漢詩を書くときに必要な韻の情報,人名の読みなどをどう見やすく配置するか。いま,指定にしたがってゲラがどんどん出てきています。

水野 指定紙を見ているだけで,気が遠くなりますね……。

鈴木 この本文設計は,『角川新字源 改訂新版』が他社のものとどうちがうのかの視覚的な批評,といえます。その領域の関連図書がどういうつくりになっているのか,そのなかで自分がデザインする本にはどういった要素が必要で,いかに独自性や批評性をもたせることができるのか。それらを吟味して,ようやくフォーマット・デザインが立ちあがる。この本文設計は,『角川新字源 改訂新版』のために考えられ,誰にでもなんにでも使えるものではない。そのような意味で,独自性や固有性がある。ですから,このフォーマットになんらかの権利があるはずだと主張して勝訴したとしても,あくまでこのフォーマットについてのものでしかない。「43字17行」[★10]という,口でいえてしまう汎用的なフォーマットに対して包括的な権利を主張しているわけじゃない。ましてや,1行20字詰めの原稿用紙などの,いわゆる「ブランクフォーム」[★11]にまで著作権の保護を求めているのではありません。

水野 知恵蔵裁判では,いまおっしゃられた汎用的なフォーマットについての権利を求めるものではないという反証が欲しかったのかもしれません。そこが朝日新聞社側が突いてきているポイントですし,あきらかに裁判官もすごく気にしているところです。

 著作権というのは保護されるか否かが曖昧な場面が多いので,弱い権利のように思われているかもしれませんが,ほかの知的財産権とちがって,特許庁に登録もしなくていい,お金も払わなくていい,つくった瞬間に発生して,人格権も認められる,生前はもちろん,日本では死後50年ものあいだという異様な長さにわたって権利が認められる,非常に強い権利なんです。そういう文脈でとらえると,裁判官が一番なにを気にするのかといえば,著作権の発生を安易に認めるときに,その表現が一定の人に独占されることにつながってしまうのではないかという危険性です。

鈴木 知恵蔵裁判では,裁判官を安心させられなかったってことかな。汎用性への配慮については,こちらにも戦術的な判断があった気もします。覚えていませんが。

水野 汎用的なフォーマットデザインに対しての権利を求めているわけではなく,鈴木さんが作成された『知恵蔵』のフォーマットという固有のフォーマットデザインに著作権が認められるか否かの問題なんだ,という強調があれば,もしかしたら判決にも影響があった可能性はあると思います。裁判のなかでフォーマットデザインの価値を論証するために議論が抽象化していき,デザイン一般に対する批評としては豊かなやりとりになっていったいっぽうで,フォーマットデザイン一般の問題にすり替わってしまった面があるのかもしてません。

鈴木 汎用性への配慮という点では,タイプフェイス・デザインが参考になりますね。

水野 タイプフェイスの場合は,文字という人類にとっての共有資源をソースにしているデザインですから,そこに著作性を認めてしまうと,文字そのものを使えなくなってしまう危険性があり,人間社会の成立すら危うくしてしまう事態になりかねない。書体デザインに権利や価値がないということではありませんが,法的に著作性を認めるかどうかについては,デザイン以上に慎重さが求められると考えられています。

鈴木 固有性を備えたフォーマットに著作権ないし編集著作権を認めたからといって,かならずしも人びとの生活を脅かすことにはつながらない。

水野 判決を「たられば」で語ることはできませんが,鈴木さんのフォーマットデザインの固有性に焦点があたっていれば,さらにおもしろい議論になっていたかもしれませんね。

水野の単著『法のデザイン 創造性とイノベーションは法によって加速する』(フィルムアート社,2017年)は,イノベーションを創出しやすい環境を法の面からつくりだしていく活動を「リーガルデザイン」と名づけ,その活用方法と意義を解説する内容。ポストインターネット時代における法のあり方を示す

不透明さの擁護

水野 ただわたし自身は,著作権法が編集著作物に著作権を認めたこと自体がまちがいなのではないかと考えています。著作権法にはあくまでアイディアは保護せず,具体的に表現されてはじめて保護するという根本的な考え方があります。にもかかわらず,著作権法は編集著作物について素材の選択・配列というある種のアイディアに保護範囲を拡張することを認めてしまった。それゆえに,これまで著作権法がタブーとしてきたアイディア保護の領域に踏みこんでしまっているとも考えられるからです。

 そういう観点からすれば,わたしは知恵蔵裁判における鈴木さんのデザインに関する編集著作権の主張は,鋭かったと思っています。編集著作権という観点から論じるならば,テキストの素材の選択,配列から生まれる創作性と,デザインのそれとに,いったいどのようなちがいがあるのかという問いには,だれも答えることができないからです。法文には「素材の選択と配列はテキストに限る」とはどこにも書かれていません。しかし知恵蔵裁判の時点では,デザインに編集著作権は認められなかった。それは,デザインに価値がないということではなく,デザインという行為の内実が,社会的に認められているかどうかの問題だったのだと思います。つまり,紙の編集者の編集行為には著作権で保護するだけの価値があるという社会的な承認があるが,デザインに関してはそうではなかったということだと思うのです。残念ながら知恵蔵裁判のときは,まだ社会が追いついていなかった。じゃあいまはどうなのかといえば,たぶんまだデザインに関する議論は深まっていないし,その価値に対する社会的な承認も危ういのではないでしょうか。だからこそ,知恵蔵裁判で重ねられた議論やそこから得られた知見を,どういうかたちでか,表現し,批評していかなければいけない。

 ただ,さきほども申しあげましたが,わたしはそもそも編集著作権というもの自体に反対ではあります。繰り返しになりますが,それは編集者の編集行為やデザイナーのデザイン行為に価値がないという話ではなく,著作権という法律で保護する必要があるのか,ということです。著作権を認めることと,そのものの価値の〈ある/なし〉は,かならずしも同一ではないのです。

鈴木 知恵蔵裁判で目ざしたのは,デザインをどの権利に帰属させるかの同定と同時に,フォーマットづくりの社会的地位の向上でしたが,フォーマットづくりへの評価の低さは変わっていない,むしろフォーマットをめぐる意識は低下しているようです。

 原因はさまざまでしょうが,ひとつには紙の割り付け用紙をつくらなくなった点があります。それが表現であるかは別問題としても,割り付け用紙は質量をともなっているから存在感があった。フォーマットがモニタ上のマスターページにしか存在しない現在とは,やはりちがう。紙からデジタルへ技術が移行したことで,フォーマットデザインが不可触になってしまった。

水野 ウェブサイトやスマートフォンのアプリケーション画面などのデジタルの分野ではフォーマットが重要視されているように思いますが,それはブックデザインにおけるフォーマットの価値のあり方とは真逆にも見えます。

鈴木 もうひとつ変わらないだいじな問題は,テキストの透明化です。テキストは透明なものとしてどこかに保存されていて,版面という器に入れたときにだけ可視化するという考えですね。インターネット時代,あるいはポストインターネット時代においては,テキストが透明だと仮想されて,テキストが情報として交通する。交通するある情報は,どれもが同一であるのが条件ですが,その〈同一〉は,かならず〈なにかにおいて〉の同一です。たとえば,〈テキストデータにおいて〉同一なだけであって,ページのたたずまいや紙の感触は無化されている。丸,三角,四角がどう配置されているかではなく,「丸,三角,四角」とだけ記述されるようなものです。広い意味でのフォーマットがあるからこそ編集過程があるのに,編集過程を離れたテキストが夢想されています。

 戸田ツトムさんは,「紙には,「小ささをここで展開するんだ」と宣言している気配がある。われわれが「紙」とつぶやいた瞬間に,遠近法的なものを阻もうというような力を感じる。(…中略…)「小ささは力」と言っていいんじゃないか。「紙」とつぶやくのは,とにかく,「このなかで決着させていかなければいけない」という戦闘宣言だ」(戸田ツトム・鈴木一誌『デザインの種 いろは47篇からなる対話』大月書店,2015年)と語っています。紙に対面したとき,あるいは紙を思い浮かべた際に,この小ささのなかで勝負するという覚悟が芽生え,そこからデザインや編集がはじまる。紙の小ささには無限大のものは載せられず,同一サイズのページに押しこめるからこそ情報として定位する。なにをどのように小ささとして編集するのか。たとえば日本人と中国人とでは垂直意識がちがうのだから,微細な局面ではものの見え方がちがうのかもしれない。そのちがいは「小ささのなかでの勝負」と無関係なはずがない。そこを外してしまってよいのか。紙から心の震えが発生する現実を,どこまで無視できるのか,それをどこまで透明化していいのか。

 知恵蔵裁判のなかで,形と内容は表裏一体,不即不離となんども主張しました。しかし,目前で起きているのは,ますますのテキストの透明化です。デザインにしても,基底材や具体的な大きさや質感から形状だけが離脱していく。オープンであることやフリーが向かっているように思える方向と,知恵蔵裁判の判決とは,ほとんど同じように思えます。オープンやフリーの前提に透明化があるし,そうでないと情報は流通できない。いつのまにかフォーマットまでが透明化されている。そのとき,フォーマットによって知らないうちに自分自身が編集されている事態になりかねない。

 透明化はたしかに便利だし,この流れは変えられないでしょう。しかし問題になるのは,デザインや編集には,透明化することのできない,不透明なものがたしかにあるということです。たとえば紙に引きつけていえば,紙から30センチメートルほど上空にある視線と,紙という表層とのあいだの層で,人間と紙が触れあうできごとが起きている。倫理と聡明さもそこから生まれるしかない。まなざしと紙が触れあう感覚を鍛えないとどうにもならないでしょう。透明になることでなにが圧殺されているのか,なにが死んでいっているのか,感覚を全開にしないと気がつかないものだろうと思います。

水野 いまのお話を受けていえば,デザインに限らず,透明化できないものを法律はどう扱えばいいのか。それを保護するべきなのか,それとも保護しないほうがいいのか,その結果なにが引き起こされるのか。そういったことについて,最近いつも考えているような気がします。その価値を判断できるのか,その価値に基づいた新しい仕組みを作っていけるのかということについて,ポストインターネット時代の知的財産をめぐる議論においても,あえて不透明なものに目を向けることで,見えてくるものがあるはずです。そして不透明なものは法律家だけでは見えてこない,感じられない。だから,デザインならデザイナーという,不透明なものについて考えている他者と議論を重ねないといけない。そうやってつねに考えつづけることができたとき,はじめてわたしたちは知恵蔵裁判のときよりも,社会を成熟させることができるのかもしれません。

脚注

★1 知恵蔵裁判と『知恵蔵裁判全記録』……知恵蔵裁判は,年度版現代用語事典『知恵蔵』の本文レイアウト・フォーマットの流用に対して,デザイナー鈴木一誌が朝日新聞社を相手どって起こした,日本ではじめてのフォーマットデザインの権利をめぐる裁判。1995年3月の訴状提出から足かけ5年にわたって争われ,1審では朝日新聞社側が裁判所の和解案を拒否,98年5月29日に東京地方裁判所によって原告(鈴木)の請求が棄却され控訴審へと発展するも,最終的には99年10月28日,東京高等裁判所によって控訴が棄却された。棄却理由は「それ(レイアウト・フォーマット用紙)が知恵蔵の編集過程を離れて独自の創作性を有し独自の表現をもたらすものと認めるべき特段の事情のない限り,それ自体に独立して著作物性を認めることはできない」というもの。敗訴決定後,鈴木はこの裁判の全過程を書籍にまとめる作業にとりかかる。そうして出版されたのが『知恵蔵裁判全記録』(鈴木一誌+知恵蔵裁判を読む会編,太田出版,2001年)である。同書は知恵蔵裁判の裁判記録のみならず,鈴木と弁護士とのやりとりまでもが収録されており,デザイナーがデザインをいかに言語化していったのかのドキュメントでもある。

★2 版面権……現行著作権法では,出版者に対し著作権も著作隣接権も認めていない。これに対し出版者は,出版者保護のための「版の権利,版面の権利」を求めており,この権利を仮に「版面権」といっている。

★3 著作権……著作者に対して付与される財産権。日本の現行著作権法では具体的に「思想又は感情を創作的に表現したものであつて,文芸,学術,美術又は音楽の範囲に属するもの」(著作権法第2条第1項第1号)と定められている。著作権の対象として想定されるのは,美術,音楽,文芸,学術に属する作品だが,デザインについては基本的に保護の対象とはされていない。

★4 編集著作権……素材の集め方,その配列などに創作性があるような著作物を編集著作物という。著作権法では「編集物(データベースに該当するものを除く。以下同じ。)でその素材の選択又は配列によって創作性を有するものは,著作物として保護する」(著作権法12条1項)と規定されている。一般的には,辞書や百科事典,雑誌などテキストベースのものを想定しているとされているが,文言上はテキストに限るという制限はなく,音楽のリミックスやコンピレーションに編集著作権を認めるのかなど,新しい議論も起きている。

★5 コピーレフト……copyleft 著作権(copyright)に対抗する考え方で,著作権を保持したまま,二次的著作物も含めて,すべての者が著作物を利用・再配布・改変できなければならないという思想。1984年にフリーソフトウェア財団を設立したリチャード・ストールマンが熱心に広めた。もともとはコンピュータプログラムのソースコードを想定したものだったが,その後,それ以外の著作物にも適用しようとする動きが発生した。コピーレフトとは異なるが,クリエイティブ・コモンズもその延長上にある考え方といえる。

★6 ページネーションのための基本マニュアル……鈴木一誌が1996年に公開した,DTPにおけるページネーションをおこなうための指針となるマニュアル。冒頭に「このマニュアルは,編集者,デザイナー,組版・製版および印刷担当者がともに仕事をするためのものである」とあるとおり,その内容はデザインに限らない包括的なものとなっている。96年の発表後も改訂が繰り返されており,現在もインターネット上で閲覧できる。コピーレフト著作物。

★7 知的財産権……知的創造活動によって生みだされたものを,創作した人の財産として保護するための制度。「「知的財産」とは,発明,考案,植物の新品種,意匠,著作物その他の人間の創造的活動により生み出されるもの」であり「商標,商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報をいう」(知的財産基本法第2条)。特許権,実用新案権,育成者権,意匠権,著作権,商標権などによって構成される。

★8 『知恵蔵』……1989年に創刊された,朝日新聞社の現代用語事典。2008年以降は紙媒体での提供を休止しインターネット上に移行。2009年4月以降は講談社,小学館と共同して設立された用語解説サイト「kotobank」内で「知恵蔵mini」として提供されている。鈴木一誌がフォーマットデザインを担当したのは1990年版から1993年版。

★9 『現代用語の基礎知識』『イミダス』……『現代用語の基礎知識』は自由国民社から,『イミダス』は集英社からそれぞれ刊行されていた現代用語事典。『現代用語事典の基礎知識』の創刊は戦後間もない1948年で,このジャンルの先駆けである。現在も紙媒体による発行が続いている。いっぽう,『イミダス』の創刊は1986年。写真や図録を多く掲載しながら横書きのレイアウトを採用した点で画期的だったが,書籍としては2006年で刊行を休止。2007年以降は,インターネット百科事典「imidas.jp」として運営されている。

★10 43字17行……1行の文字数が43で,その文字列の行が1ページに17を収まるフォーマットのこと。文芸書であれビジネス書であれ,現在の日本語書籍におけるもっとも一般的な本文フォーマットである。

★11 ブランクフォーム……blank form 書式,定型用紙などを意味する言葉。ここでは原稿用紙などの汎用的なフォーマットデザインをさしている。

プロフィール

鈴木一誌(すずき・ひとし)
ブックデザイナー。1950年東京都生まれ。杉浦康平氏のアシスタントを12年間つとめ,1985年に独立。映画や写真の批評も手がけつつ,デザイン批評誌『d/SIGN』を戸田ツトムとともに責任編集(2001~2011年)。神戸芸術工科大学客員教授。著書に『画面の誕生』(2002年)『ページと力』(2002年)『重力のデザイン』(2007年)『「三里塚の夏」を観る』(2012年)。共編著書に『知恵蔵裁判全記録』(2001年)『映画の呼吸 澤井信一郎の監督作法』(2006年)『全貌フレデリック・ワイズマン』(2011年),『1969 新宿西口地下広場』(2014年)『デザインの種』(2015年)『絶対平面都市』(2016年)など。

水野祐(みずの・たすく)
弁護士(シティライツ法律事務所)。Arts and Law代表理事。Creative Commons Japan理事。慶應義塾大学SFC研究所上席所員(リーガルデザイン・ラボ)。その他,FabLab Japan Networkなどにも所属。著作に『法のデザイン 創造性とイノベーションは法によって加速する』(2017年)『クリエイターのための渡世術』(2010年,共著)『オープンデザイン 参加と共創から生まれる「つくりかたの未来」』(2013年,共同翻訳・執筆)『デジタルで変わる宣伝広告の基礎』(2016年,共著)などがある。
Twitter : @TasukuMizuno